当クリニックでも、ここ半月ほどで花粉症の患者さんが増えてきました。花粉の飛散予報によると、今年のスギ花粉の飛散量は去年に比べて少ないとの事です。では去年の今頃はどうだったかな?と考えてもなかなか思い出せない。そのうちに当たり前の事に気づきました。去年の今頃は東日本大震災の前、たった一年前なのに遥かな昔に思えます。
2011年3月11日、その日を境に我々を取り巻く世界は一変しました。地震と津波の壊滅的な被害、福島第一原子力発電所の事故、それらを契機に止まらない経済の悪化、国の指導者の迷走・・・・
私の個人的な話をします。当、代官山パークサイドクリニックを開院して1年半、ようやく軌道に乗りかけたクリニックの新体制をスタートさせたのがまさにこの3月11日でした。午前中に来院した患者さんの数は過去最高を記録し、『今日は忘れられない一日になるかもね。』と事務長と話したのを覚えています。地震があったのは昼休み、今後の事業展開についてある観光業界の人と打ち合わせをしている最中でした。(ちなみに日本を訪れる外国人観光客に対しての事でしたので、今回の震災と原発事故でこの件は雲散霧消する事になります)。ただならぬ長周期の激しい横揺れ、直下型では無い事は確信できたため、非常口を開ける事とカルテ棚、薬品棚を抑えて転倒を防止する事を行いながら様子を見ていました。スタッフに情報収集を頼みながらも、その時点では今回の大震災の全貌は想像もしていませんでした。
震災発生後、電車などの交通機関は大混乱していました。とりあえず安全を確認した後、帰宅できそうなスタッフを適宜返しましたが、クリニックは通常通り開けていました。というか、私自身も帰る事が出来なかったのです。すると、同じく電車が動かなくて職場や出先から帰れない人や、たまたま代官山に遊びに来ていた人がぽつぽつとクリニックを受診しに来ました。皆クリニックで電車の運行状況を確認しては途方に暮れていました。クリニックをいつもの金曜日よりは早めの19時台で閉めたものの、私は相変わらず帰れずにクリニック内にいて、事務仕事をしていました。夕食をスーパーの惣菜で済ませた後、夜になって電車が動いたとの報が有り帰宅を決意しました。その日の深夜の渋谷駅の大混乱と大行列は非現実的な凄まじさで、鮮明に記憶しているにも関わらずどこか夢の中の出来事の様に思えてなりません。
震災後、報道により被害の実態が明らかになるにつれ、我々は心を痛め、余震や原発事故への不安を強めて行く事になります。日常生活に於いては生活用品の不足が生じ始めていました。そうこうしている内に震災の影響はクリニックの運営にも及んできました。先ず医薬品が不足してきました。特に当クリニックで力を入れているLOH症候群(男性更年期障害)で使う男性ホルモン注射は実に95%が宮城県と福島県で生産されており、生産施設が壊滅的な打撃を受けていました。また、漢方薬もツムラの茨城工場が被害を受け、復旧のめどがたたない状況となり、当クリニックはLOH症候群と漢方薬治療というクリニックの二大看板に支障が出てきたのです。とりあえず当クリニックで治療中の患者さんの分の注射や内服薬の確保に全力を尽くしました。製薬会社や薬問屋の方々が必死になって薬を探してくれました。漢方薬などを内服している患者さんには、不足している漢方薬については各人2週間処方にさせて頂きました。皆様本当に快く協力してくださいました。
福島第一・第二原子力発電所の停止に起因する電力不足による影響も深刻でした。節電のため街燈が消え、電車の室内灯やエアコンが消されました。時間帯によっては電車が間引き運転となり、駅の電光掲示板や券売機も稼働数が削減されました。駅に着くたびに真っ暗になる電車内に座っていると、僅か数日前には当たり前だったエアコンが効いて明るい車内がいかに快適であったか思い知らされました。
電力不足による計画停電もありました。私が普段いる代官山パークサイドクリニックは計画停電のエリアから除外されていたのですが、水曜日に勤務している実家の分倍医院は府中市であったため、計画停電が実施されました。計画停電の初日はたまたま私の外来日でしたが、16時から実施されるとの事でした。外来は18時半まで。停電で休診にするのは嫌だった私は、クリニックのスタッフや調剤薬局を巻き込み計画停電下での診療続行を決めました。停電に備えて医療機械を全てシャットダウンし、聴診器を握りしめて停電を待ちます。そして16時。何も起こりません。3分・・・5分・・・7分経過。『今日は計画停電にはならないのかな?』と看護師と話した瞬間、何の前触れもなくすべての電源が落ちました。すぐに黄色の非常灯が点灯しましたが、普段とは全く違う雰囲気の診察室がそこにはありました。診察を続けていくうちに窓からの明かりはどんどん少なくなっていきます。約二時間で非常用電源は切れ、医院は日没後の闇に包まれました。外は六時過ぎだというのに漆黒の闇、窓の明かりもなく、街燈も、交通信号さえ消えています。まさかこれ程の暗さになるとは想定していません。医院では待合室にランタンを置き、診察室では点滴架台に懐中電灯をくくりつけ明かりとしました。暗くなってからも患者さんは続々と訪れます。近隣の医療機関が停電を見越して臨時休診にしたので、困って初めて来院した患者さんもいました。懐中電灯の明かりで診察し、注射などの処置をし、処方箋を書く。何もかも初めての中、スタッフも調剤薬局の方々も頑張ってくれました。19時30分に診療終了。医院の中庭から見える空に数多くの星が瞬いていました。
福島第一原子力発電所の事故への対応も、公私とも苦慮しました。私の父は戦時中、長崎に住んで旧制高等学校に通っていました。昭和20年初頭に内科医をしていた祖父の仕事の都合で北海道に移住したため、原爆の被害には遭わないで済みましたが、友人、親戚など多くの人がプルトニウム型原爆で跡形もなく消滅しました。また、原爆症に苦しむ人たちの実情や、その中で力強く生きる人たちの姿などを折に触れて父から聞かされていました。そのためか、私も核兵器や原子力利用については人並み以上の関心がありました。医学部に入ってからは、核物質の恐ろしさに加えて、核物質摂取によるダメージの修復に見られる人類という生物種の意外な強さ、放射線障害に対する正しい知識を持つことの重要性などを学んで行きました。
原発事故以来、公の部分では、外来で放射線障害の予防や対処、緊急時の薬の希望などが相次ぎました。マスコミの発表に不安に駆られた人たちがヨード剤を求めて外来を訪れます。彼らはヨード剤が放射能から身体を守ってくれる万能薬と思い込んでいます。実際にはヨード剤は放射性物質の甲状腺への集積を防止する効果のみで、全身に対する防護効果は皆無なのにも関わらず。それに対して私は、全身の放射線障害に対する方策が重要と考え、免疫系を強化し、細胞修復効果を強める、食養生と漢方薬など東洋医学的に放射線障害に対処する方法を話すのですが、なかなか理解してくれません。また、私の知り得る知識を少しでも役に立てたらと原発事故と放射線障害というコラムをホームページにアップしたり、それを患者さんに配布したりしました。しかし、それらの元になっているのは政府が発表した数字であり、政府が発表した事実です。そのうち政府発表が胡散臭くなってきます。それに伴って私のコラムや外来での言葉まで怪しくなってしまいます。まるで太平洋戦争時の大本営発表を彷彿とさせる国民を欺く手法に正直失望したものです。
私的な部分では母親の事と昨年建築を終えたばかりの実家の医院の事です。
福島第一原発の事を公的に聞かれれば、直ちに大きな影響はないと答えていましたし、原発事故で漏れた放射性物質の総量が例え発表の1000倍であったとしても、長崎の原爆の事例を見る限りは人体への影響は軽微である事は間違いないと確信していました。しかし、福島第一原発に貯蔵されている核物質の総量は発表されている漏出量の数十万倍あり、それがすべて臨界に達すれば首都圏も避難区域になってしまいます。最初のうちは政府発表を信じていたのですが、そのうち発表の内容に信憑性がなくなってくるにつれて、不安がつのりました。母親は今も現役の婦人科医として診療していますが、心臓病や膠原病があり、自宅での階段昇降もままならない状況にあります。もし、避難という事になってもどうしようもありません。また、自宅兼医院である分倍医院の建築を終えてから一年弱、まだまだこれから頑張っていかなくてはならない時期にありました。代官山のクリニックの事も含めて、何が有ってもこの土地を離れる訳にはいかない状況でした。
3月末には恒例としていた目黒川のライトアップされた夜桜を見に行きました。私がクリニックを開く場所を代官山にしようと決断した要因の一つに、この大好きな夜桜の光景があったのかもしれません。2011年の桜は例年にも増して見事でした。しかし、節電の影響でライトアップは自粛。ひっそりとした夜桜でした。中目黒駅に近い目黒川沿いのベンチに座り、友人と共に持参したLED懐中電灯で夜桜をセルフライトアップしながら酒を飲みました。『原発の貯蔵燃料がすべてまき散らされたら、東京は住めなくなる。それでも僕はここにいる。何が有っても来年の桜を見に来る。でも、来年何事もなかった様にライトアップされた桜を皆で見る事が出来たら、神様に感謝しよう。』と言ったのを覚えています。もうすぐ、目黒川の桜が咲きます。
震災後、私自身やクリニックの状況が安定してくると被災地へ目を向ける余裕が出てきました。募金箱での募金活動から始まり、物資の支援など簡単な事はすぐに行ってはいたのですが、ぜひともやりたい事がありました。医療支援、つまり医師として被災地で活動するという事です。開業医であれば、勤務先の許可を取る必要はありません。自分の意志で行動できます。あとはクリニックの運営に支障をきたさずに活動ができるかにかかっています。報道では、被災地のボランティアセンターや避難所で医師、看護師、医薬品の不足が連日の様に報道されていました。医師の診療を待つ長い行列、辛そうな顔で治療を待つ人たち。医師であればこそ可能なボランティアがあると確信しました。
さて、今こそ行動の時だ!と思い、関係機関にいろいろ打診したのですが、意外な壁が立ちはだかっていました。医療派遣は大病院のボランティア医師が対象と考えられていて、原則は複数の医師、看護師から成る医療チーム派遣で日数も一週間単位とされていました。個人で休日のみ医療ボランティアとして働く事は想定していなかったという理由で断られました。宮城県などに問い合わせても同じ理由で『今回はご遠慮いただきたい。』と言われました。『今回は』って、じゃあいつ行けというのだろう?ゴールデンウィークを利用して医療活動をする心づもりだった私は、あきらめきれずに連休に宮城県行きを計画します。ボランティアのあてなど全くなく、行っても単に被災地見学に終わってしまうのではないか?不謹慎と言われないか?など考えて直前まで悩みましたが、東北新幹線が開通した事と松島観光船や水族館が再開した事を聞きつけ宮城県に行くことに決めました。松島を見て観光施設で物を買う、『消費参加も復興支援』と自分に言い聞かせての旅でした。
その旅は、生涯忘れ得ぬ旅となりました。仙台市内の壁面の崩れたビル、塩釜の駅前のなぎ倒された電柱、マンションの地下立体駐車場の中に乱雑に積み重なる自動車、路面の裂けたアスファルト、塩釜港の海浜公園に打ち上げられた遊覧船、道路を塞ぐ小型漁船とそれを避けながら走るタクシー、・・・・・。
松島観光汽船の船内からはさらに衝撃的な風景を見る事になります。海岸沿いの家や工場は軒並み全半壊していました。二階建ての家は一階部分の壁がすべて壊れて失われています。柱のみの状態の一階にほぼ無傷の二階が残されている家もあり、津波というものがどういうものなのか再認識させられました。観光船は、ゴールデンウィークとしては閑散としていましたが、楽しめました。松島の島々はほぼ無傷で、群れ飛ぶカモメも以前と変わりなく、まるで震災などなかったかの様でした。しかし、外海に近づくと様々な漂流物が姿を現してきます。壊れたカキ養殖いかだ、切れた漁網、家の残骸と思われる木端などです。松島湾の奥にはプレジャーボートが多数岩場に座礁し放置されていました。
観光船は松島に着きました。松島の岸壁は波に洗われています。松島の土地が、地面が数十㎝地盤沈下した事が見て取れました。すさまじい震災の威力です。松島の町の道路は路面が割れて隆起し、波打っていました。松島の町は松島を構成する島々が津波の盾になって、比較的被害は軽微と言われています。それでも海岸沿いの目抜き通りの商店街は軒並み大きな被害を受けていました。それでも津波をかぶった商品を丁寧に洗って『波をかぶった商品ですが』と断って販売しているみやげもの店や、仮店舗で宮城県の銘酒『浦霞』を販売する酒屋など復興に不退転の決意で取り組む人たちがそこにはいました。松島水族館もその一つです。津波で多くの海洋生物が死んでしまいましたが、残った海の仲間たちで水族館を再興したのでした。私の地元の多摩動物園が水族館復活に力を貸したのも密かに嬉しかった事です。松島では数多くの海鮮を食しましたが、どれも実に旨いものばかりでした。しかし、気づいた事がありました。焼きホタテを買った時に、おばちゃんから受け取ったつり銭の硬貨が錆びています。一生懸命泥の中から回収して洗ったんだと思ったら不意に涙があふれました。貴重なつり銭です。『波かぶっちゃったから、ゴメンね。』おばちゃんが謝ります。私は涙の照れもあり素直になれません。アツアツのホタテを食べながらぶっきらぼうに言います。『そこのカキも貰うかな。とりあえず全部だ。』おばちゃんも少し泣いています。『兄ちゃん、良く食べるね。』『松島はホタテもカキも旨いから。次もまた食べに来る。』
旅は続きます。東松島から石巻へ。震災で被害を受けたJR仙石線の線路に沿って走る臨時代行バスの旅です。高城町から仙石線はしばらく海沿いを走ります。海や運河沿いを走る気持ち良い路線でした。仙台駅から直通でステンレスの現代的な車両がローカルな風景を走る違和感、面白い路線でした。
東名(とうな)から野蒜(のびる)、見渡す限り津波で破壊ざれた家々が広がります。東名駅では線路が枕木ごと剥がされ横転していました。野蒜に入ると運河沿いをバスは走ります。運河にも瓦礫が散乱し、自動車が多数運河の水面に突き刺さるように残されています。野蒜駅の駅舎が無事に残っていて臨時のバス停になっています。周辺にやや小高くなった場所があり、津波を免れた住宅が寄り添うように立ち並んでいました。残された街から学校に通う子供たち。ランドセルを背負った小学生が歩く通学路のすぐ横の運河で、自衛隊が行方不明者の捜索をしています。あまりにもシュールな光景です。
東松島市の平野部も海から数キロ離れた田んぼの真ん中に津波による漂流物が散在し、トラクターが横倒しになっています。人が跨げる位の小さな川や用水路の脇の金属製の柵が無残に引きちぎられています。津波の巨大な力は街の隙間を縫って入り込み甚大な被害を生じたと思われます。東松島市の中心、矢本の駅を過ぎ、石巻市に近づくにつれて町は都会の様相を呈して活気が出てきます。石巻駅前は代行バスや仙台の直通バス、タクシーでにぎわっていました。しかし、駅前を良く見るとどの建物も一階の壁や窓が破れたり変色したりしています。ここもまた津波の被害を被った跡が見受けられます。
石巻を見渡す日和山に登ってみました。かつてここからは、石巻の海岸道路と美しい橋、整然とした市街と工場群が広がっていました。それが、全て無くなっていました。唯一、河に架かった橋は残されていましたが、後はほとんどの建造物が全壊していました。膨大な瓦礫の街の中で、目につくのはカーキ色の自衛隊の車両群と民間企業のトラックのみ。自衛隊員はいても市民は見当たりません。津波は日和山のふもとの墓地まで押し寄せ、そこで止まっていました。墓地の中ほどまで墓石が積み重なっています。そこから山側は何事も無かったように整然としています。日和山でせき止められた津波は川に向かいます。石ノ森博物館があった通称『マンガッタン島』を飲み込み、日和山の裏側から石巻駅周辺に襲い掛かります。川沿いの地域での津波は5メートル以上に達し、交通信号機は信号部分まで波をかぶり錆びていました。これでは、二階に避難しても、電柱によじ登っても助かりません。石巻駅前の市役所仮庁舎の掲示板には無数の小さな張り紙がありました。行方不明の親を、妻を、夫を、恋人を、子供を、友人を探す無数の祈りを込めた紙片。胸が痛みます。
被災地の現実に私は打ちひしがれました。医療ボランティアじゃなきゃ嫌だなどと言っている場合ではない。できる事をやろうと心に誓いました。その一週間後、私は水没したフィルムや写真の復元作業のボランティアを行いました。私は高校時代から写真を趣味にしていましたが、こんなところで役に立つとは思いませんでした。津波ですべてを失った人々の思い出の品、生きてゆく証を取り戻す作業、やりがいを感じました。津波をかぶった後は、水没というよりは“泥没”とでも言うような状態になっています。重く粘土状になった土の塊の中に全てのものが飲み込まれています。泥は空気を含まず、いつまでも湿っていて、表面から少しずつ白く乾いていきます。乾いた表面からは砂より細かい微粒子が風と共に舞い上がります。空気を含まない泥の中では酸素を必要とする通常の細菌は育たず、嫌気性菌というカテゴリーの細菌や各種ウィルスなどが生育します。この泥を気道から吸い込むと難治性の気管支炎などになりやすく、皮膚に付着すると皮膚炎の原因となります。そのため、夏など暑い時でも防塵マスク使用や長袖の作業着での活動が重要になります。もっと深刻な問題もありました。破傷風感染です。嫌気性菌の代表である破傷風菌は、傷口から侵入すると生命を損なう可能性もある恐ろしい病原体です。通常でも土の中に埋もれている木片などで怪我をすると破傷風に感染する恐れがありますが、津波の後の泥の中は嫌気性環境であるため、破傷風感染のリスクが桁違いに高まります。
一緒にボランティアをしている仲間が指を怪我しました。泥の中に埋もれていたガラスの破片が軍手を突き破って人差し指に刺さったのです。幸い傷は動脈に達する様なものではなく、消毒と止血だけで済みました。私は彼に、破傷風のワクチンを注射しているか聞いてみたのですが、その答えは『判らない。そもそも破傷風って何?』というものでした。他のボランティアにも同様に聞いてみたのですが、破傷風という病気の事もワクチンの事も正しい知識を持っていない人が大半です。医療従事者以外の私の友人も同じ様な状況です。またボランティアに参加する時にその辺の説明があったという人は一人もいませんでした。この現状は何とかしないといけないと痛切に感じました。もちろん怪我をした彼には、状況を説明して医療機関を受診させました。
次の土曜日の朝、私は仙台市にいました。仙台市庁舎、宮城県庁舎、ボランティアセンターなどを回って、破傷風の知識をボランティアに通知する事の重要性について話して回る予定でした。
破傷風という病気の怖さやワクチンの有効性、ボランティアや地元の人など瓦礫撤去などの作業に従事する人たちへの啓蒙活動など、今までの医師としての経験や実際に現地を見て判った事実、啓蒙活動のアイデアなどを説明し、理解していただく。簡単なレジメも作って準備しました。その時点でボランティアの方の中で数名の破傷風感染者が出たという事もネットで判明していました。幸いに亡くなったボランティアの方はいない様でしたが、早急に対策をする必要があると思われました。しかし、どこへ行っても何故か門前払いでした。何だかおかしなクレーマーが来た、位に扱われた感じです。ようやくある組織の担当者が会ってくれる事になりました。
私は資料を見せながら担当者に説明しました。『破傷風は感染し、発症すると生命にかかわります。しかし、あらかじめワクチンを接種する事で生命を失うリスクを極めて小さくする事が可能です。特にボランティアに来た方が破傷風で亡くなったりする事は、絶対にあってはならない事態です。そのうえ、それがおかしな形で報道されたりしたら、ボランティア活動というもの自体に大きく支障をきたす事にもなりかねません。』
それに対してその担当者は、破傷風やワクチンの情報を広める事については『ボランティアの人たちはそんな複雑な情報を知らされる事は望んでいません』。破傷風からボランティアの生命、健康を守る事については『ボランティアの人たちは覚悟をもって来ているので、(破傷風ワクチンなどは)必要ないはずです』と言われました。覚悟って何の覚悟でしょうか?被災地に来るボランティアの人たちは皆、破傷風に罹って死ぬ覚悟をもっているとでも言うのでしょうか?
他にもいろいろ話をしましたが、全く取り付く島もありません。結局、何も出来ないまま東京に帰りました。
東京に帰ってからも、破傷風の事を啓蒙する事はあきらめきれずにいました。『これこそが私のするべきボランティア活動だ!』と自分の心が確信していました。何か良い方法があるはずです。しかし、私は医師としても無名で、さしたる政治力も無く、開業したてでお金もない身です。何か良い方法はないものか?
その時ふとひらめきました。破傷風ワクチンをボランティア限定で無料接種したらどうだろうか?そしてそれをネットや口コミで広めていったら、宣伝に資金をかけなくても何とかなるんじゃないか、と考えたのです。しかし、やっと黒字になったばかりのクリニックです。ここで院長が独断でワクチンの無料接種など始めて、従業員がついてきてくれるか心配でした。そこで事務長に相談しました。『ボランティア向けに、破傷風ワクチンを無料で接種する事を考えているんだ。資金的に無理ならしょうがないけど』事務長はすぐに後押ししてくれました。『すばらしい。ぜひ無料でやりましょう。』剛毅で頼りになる男です。すぐになけなしの予備資金をつぎ込んで破傷風ワクチンを買い込みました。幸いな事に当、代官山パークサイドクリニックは渡航者向けのワクチン接種を以前より行っていたため、ワクチン希望者の予約、日程管理などは経験の蓄積があります。後はクリニックのオフィシャルページにコラムを書いてボランティアの方々の申し込みを待ちました。こうして破傷風ワクチンの無料接種が始まったのです。
その後1~2週間は何の反応もありませんでした。最初の電話は友人の医師からでした。彼は愛知県で勤務医として働いています。彼とは以前よく私の車で山道を走りに行ったものです。電話の内容は、『破傷風ワクチンの話題を検索していたらコラムに行きついた。開業のために自動車まで手放したと聞いていたが、大丈夫なのか?破傷風ワクチンの購入代金とかどうしたのか?』というものでした。ワクチンの購入は全てポケットマネーだと言うと、『まあ、お前らしいな』と呆れられました。
しょせん無理な試みだったのかな、と思い始めた初夏頃、徐々にボランティアからの問い合わせが増えてきました。ネットで知った人もいますが、口コミで来てくれる人が多かったのは嬉しい限りでした。ボランティアには様々な人たちがいました。学生から60代まで幅広い年代、週末ボランティアから長期滞在、外国人の方のボランティアが多かった事にも驚かされました。何人かの方からはボランティア先から葉書を頂いた事もあります。これが嬉しかった。お土産を下さった方もいました。中には無料では申し訳ないからとお金を払いたいと言って下さった方もいます。そういう場合はいつもこう言います。『もしお金を払ってくださるつもりがあるのなら、その分、現地で買い物をして下さい。震災後、懸命に頑張って商売をしている人たちを支えてください。それが、当クリニック一同の願いです。』
気が付けばボランティア向けの破傷風ワクチンは500件を超えていました。少しは“医療支援”になったのでしょうか。 我々を取り巻く状況を“世界”というならば、ほんの僅かでも“世界を変える事”が出来たのでしょうか。
昨年末に件の友人に冗談で『有料でやったら、車が買えたのに』と言われました。確かにそうかもしれません。しかし、私にはクリニックがあり、素晴らしいスタッフに恵まれ、とりあえず食うに困らず、雨風をしのぐ部屋があり家賃が払える、当座これ以上望むものはありません。車はなくとも、愛犬も私の自転車の前かごに満足しています。
今年2月上旬、渋谷の東急東横店で宮城県の物産展が催されました。そこで嬉しい驚きがありました。女川のさんまが出ていたのです。
女川は日本一のさんまが採れる所でした。女川の漁港は太平洋に面した湾の奥にあり、港のすぐ後ろに市街が広がっています。港の正面には漁協の施設であるマリンピアがあり、毎年ここで“さんま祭り”が行われていました。かつての女川のさんまの特徴はその新鮮さでした。水揚げしてからすぐ冷蔵し、トラックで各地に運ぶ。東京に運ばれてもその鮮度は目を見張るものがありました。
女川の被害は地形により津波が女川港に集中し、高くて威力のある津波が押し寄せた事によります。集中した津波は高さ20m弱におよび、4階建てのビルを飲み込み、土台から引きちぎりました。今も撤去できずにいるビルを見ると、どの様な力がかかれば鉄筋コンクリートのビルがこんな状態になるのか想像もつきません。女川周辺の医療を一手に引き受ける女川市民病院は女川漁港を望む高台にあり、その駐車場は周りのビルの屋上よりも高くちょっとした展望台になっています。津波は、病院にも押し寄せ、高台にある病院の一階を浸水させ、駐車場の車を根こそぎ押し流し、眼下の街に落下させたそうです。ここが浸水したらどこにいても助からないと実感しました。被災した矢本の診療所からの紹介で女川に通院しているおばあさんと代行バスの中で話をしました。電車無くなっちゃって大変だけどがんばって通院すると言っていました。『腰が痛い時などは娘がどこにでも送ってくれたんだけど、死んじゃった。本当に良い娘だったんだ。でも娘の分まで頑張って生きないと』と言って一歩ずつゆっくり歩いて行きました。
女川には原子力発電所もありましたが、無事に停止しました。女川に行った時に『俺たちは原発を守った。それだけの事だが。』と言っていた老人がいました。息子さんが原発で働いているそうです。
今回の物産展で売られていたさんまは生ではなく丸干しでした。『冷凍施設も製氷施設も全部やられた。だから丸干ししか出来ない。でも女川の最高のさんまで作った』と言っていました。さっそく買って食べてみましたが、これが実に美味しい。さんまの内臓を丁寧に取り除き、絶妙の塩加減で味付けした丸干し。いまだかつてこんなに美味しいさんまの丸干しは食べた事はありません。『子供のころ食べた、懐かしい味がする』と、一緒に食べた母が言っていました。冷凍施設など近代設備を全て失ってなお、伝統の技法に磨きをかけて勝負する、その心意気が伝わってくるさんまでした。女川港には仮桟橋が設けられていて漁船を受け入れています。マリンピアは無事だった地区に仮施設を作り、再起を図り奮闘中との事でした。
震災で失ったものを嘆くよりも、今あるものに感謝して生き抜く人たちがいます。それを支えて共に歩もうとする人たちがいます。彼ら一人一人の力は実に小さい、例えれば一滴の雨粒です。雨粒は石の表面でなす術もなく跳ね返されます。しかし、その雨粒はそこに確固たる意志があれば、永の年月を経て、巨石を穿ち、千尋の谷を刻みます。
復興の道のりは例えどんなに長く、険しくとも、雨粒が自らの力を信じ、明日に希望を持って歩み続ければ、きっと被災地は、この国は立ち直ります。
私も常にそんな一滴の雨粒でありたいと思っています。
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